街中のせせらぎ
蓮沼川(宮さんの川)・源兵衛川・桜川・四ノ宮川・御殿川
 

 
◆2003 水の都・三島 湧水めぐり 2003.9.6 (別ページに移動します)
 


宮さんの川水車お披露目式


 
宮さんの川水車前にて
お披露目式
平成11年4月2日(日曜日)11時〜


そぼ降る雨の中、三島ゆうすい会、遊水匠の会、GW
三島町内から、約20人が集まって神事式を執り行いまし
神事式が終わったあとはみんなで乾杯!!
「宮さんの川」に新水車設置、水時計も塗り替え!

☆平成11年3月26日(日曜日)

「宮さんの川」に新水車設置
水時計もペンキを塗りかえ新鮮!!

桜の花も咲き、暖かい日ざしの中での作業となりました
水車の取り替え、時計ペンキ塗り他整備作業も一日かけて終了しました

散策を楽しむ人たちも興味深そうに眺めていました

 

 
水辺の文学碑が並ぶ桜川 


 菰池(こもいけ)と白滝公園を源流とする桜川は、三嶋大社西側の祓所(はらいど)神社の脇を通り、南へと流れています。かつては祓所川とも言われていました。川は下流に行くに従って、いくつもの水路に分かれ、二日町、中、中島地区の水田を潤(うるお)す人工の農業用水路です。以前は三嶋大社西側の道路下を通り、県道三島富士線を越えると再び姿を現わし、市役所本館前を勢いよく南下していました。

 豊かな湧水が溢れていたころは、この辺りは小舟も浮かび、水の三島の情緒を楽しむ人々でにぎわったそうです。白滝公園付近は昭和の終わりごろまでは「水上(みずかみ)」と呼ばれ、川沿いには桜が植えられていて「水上桜ケ丘(さくらがおか)」とも呼ばれ、川名の由来となっているようです。第2次世界大戦までは、「搗き屋(つきや)」とよばれる精米などを請け負う水車業が11軒もあり、川のせせらぎとコットンコットンという水車の音が四六時中聞こえていました。また、昭和30年代までは桜川は市民の水道代わりの生活用水であり、子供たちの水泳の場でもありました。

 現在、三嶋大社に向かう川沿いの道に、柳が植えられ「柳通(やなぎどお)り」と呼ばれています。美しく手入れされた花壇とともに、太宰治(だざいおさむ)や若山牧水(ぼくすい)など三島ゆかりの文学者7人の文学碑も並び「水辺の文学碑」として、多くの観光客が足を止めています。

 水量は減りましたが、清い川の流れは人々に安らぎを与えてくれています。この美しい桜川を守るため、「桜川を愛する会」の会員や市民が定期的に清掃を行っています。
 
アメ二ティ大百科より 

桜川人柱伝説(さくらがわひとばしらでんせつ)

 菰池公園からの湧水と、白滝公園からの湧水が合流する付近に、芝本町方面へ流れを落すための「ドンドン」と呼ばれている水門があります。その堰(せき)には、「人柱伝説」が残されています。

 その昔、桜川は水量が多く水の勢いも強く、堤防を造っても何度も壊されてしまいました。役人たちもほとほと閉口している折りに、ちょうど通りかかった僧がいました。

 僧は「それは人柱を立てることで解決します。気の毒だがこの堤防を造る人夫の中に、襦袢(じゅばん)の肩当てに手拭(てぬぐい)を使用している人がいます。その人が人柱になる人です」と教えてくれました。

 早速、調べてみると、僧が言ったとおりの人がいました。そして、その人夫が人柱の犠牲となり、堤防工事が無事に完成しました。

 以来三島では肩当てに手拭を使わなくなったと言います。また、堰門には線香と花が供えられており、つい最近までここを通る人は履物を脱ぎ、素足で通ったと言われています。

 この話がいつごろのものであるかは明らかではありません。桜川を造ったのは江戸時代中期という説があります。しかし、慶長(けいちょう)9年(1604)の三嶋大社の絵図には桜川が描かれているので、律令時代のことではないかという説もあります。

 
 ドンドンの写真  「どんどん」と呼ばれる水門
 
 
 

 
 
蓮沼川(宮さんの川)紹介 


 この川は、全長約1kmの農業用水路として作られました。流域で蓮が植えられていたことから、第2次世界大戦後、蓮沼川という正式名になりました。小松宮(こまつのみや)別邸(べってい)があった楽寿園の小浜池を源流とすることから、「宮さんの川」とも呼ばれています。水が豊かに流れていたころは、周辺の人々の大切な生活用水であり、子供たちの夏の遊び場でもありました。

 旧東海道に沿って西へ流れ、境川に架(か)け渡した千貫樋(せんがんどい)と呼ぶ樋を経て隣の清水町に流れているので、千貫樋用水路とか小浜用水路(こはまようすいろ)とも呼ばれています。

 昭和30年代後半ごろから、湧水の涸渇(こかつ)で水量が減り、川はどぶ川のように汚れてしまいました。この状況を見かねた地域の有志が三島市と協議し、東レ三島工場から冷却に使用した水を流してもらうことになりました。これで必要な水は確保できましたが、水温が高く、ボウフラが湧き、カ(蚊)の大群が発生してしまい、この防除のためにコイを放流しました。

 この地域の人々の活動は「宮さんの川を守る会」として定着し、奉仕活動で川を清掃し、川べりや川の中に花壇を設置しています。昭和63年(1988)には、この川辺の景観は「静岡県のまちなみ50選」に選ばれ、さらに平成6年(1994)に国から「水環境賞」及び「緑の愛護建設大臣賞」を受けるなど、その活動は高く評価されています。三島市も「ふるさと創生基金」により、水辺に地元彫刻家によるブロンズ像、ガス燈を設置するなど、楽しい散策路となりました。川と水を愛する人々の思いが美しい町並みを復活させ、水辺環境に対する意識を高めているのです。平成11年(1999)から12年にかけて、「三島ゆうすい会」の「遊水(ゆうすい)匠(たくみ)の会」の手作りによる、飛鳥時代の水時計や大きな手作り水車が置かれ、懐かしい水音を立てています。      

アメ二ティ大百科より 噴水と花が美しい宮さんの川 
 
 
 
 
 

 

水車は生活とつながっていた 


三島は、かつて水車が多く見られました。現在、蓮沼川(宮さんの川)、楽寿園内で見られます。
水力利用の製糸、製材、精米業。
紙すき、染色(紺屋)、製傘(せいさん)業者が多く見られました。
大正時代には11軒も見られるほどでした。

「ゆう水匠の会」がなつかしい風景を再現しようと、製作しました。

 
   
 杉を使い、直径150センチのもの(平成11年完成)



 

水と時はなかよし・・・?
漏剋(ろうこく)がある水辺のまち

漏剋(ろうこく)と呼ばれる水時計が蓮沼川(宮さんの川)に設置されました

 

斉明6年(660年)中大兄皇子(天智天皇)が漏剋を初めて造り、これによって
人々は時刻を知ることができたと日本書紀に記してある。
この構造は、全部で五つの水槽からなり機能的には、上から夜天地、日天地、片壺満分壺の四つの階段状に並んだ直方体の水槽(漏壺)と水海という円筒形(ここでは直方体)の水槽〔箭壺)とに分けられた水時計である。
企画2年・製作2ヶ月を費やし完成した
「ゆう水匠の会」のメンバーが製作

漏刻(ろうこく)のしくみ

●階段状になった木製
●2メートルほどの高さの最上段に水そうをおく
●サイフォンを使って水を流します

容器内の水位の変化で時刻を知ります